日本ウェルネススポーツ大学東京『FORUM』に杉町マハウ選手の記事が載りました!

以下、『FORUM』2008 No.27より引用。


北京五輪出場。専門学校で才能を開花させた
日系ブラジル人のトップアスリート

 今年の夏、世界中を湧かせた北京オリンピック。花形競技の一つである陸上の4百メートル障害にブラジル代表として出場し、準決勝まで残った。準決勝のタイムは50秒16。ブラジルの代表選考選手権で叩き出した49秒15の自己ベストには遠く及ばず、決勝進出は叶わなかったが、「満員の聴衆の歓声を浴び、オリンピックとはこういうものなんだと実感できた。次につながる良い経験になった」と前向きに捉える。
 ハードルを始めてわずか4年目。インターバル(ハードル間の距離)12歩というダイナミックな走りは世界のトップクラスでも珍しく、23歳の若さと合わせて限りない将来性を感じさせる。そしてその競技人生は日本で始まり、日本を拠点に花開こうとしている。
 ブラジルで生まれ育った杉町さんが一家で日本に移り住んだのは15年前、8歳のとき。90年代初頭から日系ブラジル人家族の入国や滞在に関する規制緩和が行われた結果、多くの家族が仕事を求めて日本に渡った。父方の祖父が日本人である杉町さん一家もそのひとつで、父は栃木県足利市の機械工場に職を得て、1年後に家族を呼び寄せる。杉町さんにとって幸運だったのは、先に日本に渡った親戚の子どもが公立小学校に通っていたことだ。同じ年のいとことなるその少年は既に日本語に明るく、「彼の通訳と案内でクラスにすんなり溶け込めた」と振り返る。
 杉町さんには兄と弟がおり、3人揃ってスポーツ万能。中学校のとき1歳上の兄に誘われて始めた走り高跳びは、高校3年のインターハイで5位入賞を果たすほど上達した。複数の学校から誘いがかかるなか、日本ウェルネススポーツ専門学校を選んだのは「大学よりも自由にスポーツに専念できる環境」が魅力だったからだ。そしてこの選択が、杉町さんの将来を大きく変えることになった。
 同校陸上部の菱沼篤志監督は、日本選手権や全日本実業団選手権で数々の実績を誇る名指導者。杉町さんを見てなにか期するものがあったのだろう、ある日「ちょっとハードルを跳んでみろ」と声をかけた。軽い気持ちで挑んだ初めてのハードル。しかし全インターバル13歩という驚きの結果を見れば、その才能の片鱗は明らかだった。
「その頃はトップクラスの選手でも5台目までが13歩、それ以降は14、15歩というのが普通でした。先生も驚かれたでしょうが、僕もびっくり(笑)。翌日からハードルの選手に転向しました」
 そのとき杉町さんは2年生。走り高跳びには限界を感じていたが、新しい可能性を見つけて就職の選択肢は消えた。そのまま研究生として学校に残り、コーチ兼選手としてハードルに打ち込むうち、次第に「オリンピックが視野に入ってきた」という。ブラジル選手権で見せた走りは圧巻で、現地の人々も彗星のように現れた日系選手に拍手を送った。
北京オリンピック後、殺到する取材をこなしながら自分のペースで練習に励み、選手たちを指導する杉町さん。当面の目標は来年の世界選手権出場だが、その先に見すえているのはもちろん2012年のロンドンオリンピックだ。
「今回の経験で世界中の人が注目するスポーツの祭典の力を感じた。僕の走りがブラジルと日本の架け橋につながれば幸せ」
 大きな夢を乗せて、しなやかな身体が跳び、走る。